2014年5月30日金曜日

Tra khổ qua (ゴーヤ茶)

Hôm qua, lần dầu tiên tôi đả uống tra khổ qua.
Tôi nghĩ rằng có người không thích vị đắng của nó nhưng tôi thích tra này lắm do vị đắng.



昨日初めてゴーヤ茶を飲みました。
ゴーヤ茶の苦味が好きじゃない人も居ると思いますが、私は、その苦味故にこのお茶がとても好きです。


外国語で文章書いた後に、その日本語訳を書くと変な感じになるな。

2014年5月22日木曜日

バナナ

種類は分からないけど,とりあえず旨かった。ngon và ngọt quá.

2014年5月20日火曜日


風で枝が折れた木。
たまには、花を見たりもします。






2014年5月10日土曜日

晴れ

くもりがちなハノイでも最近晴れることが増えてきた。夏か。確かに熱い。

2014年5月9日金曜日

美味しんぼの問題


風評被害云々よりも、事故を起こした東電の責任をはっきりさせることがまず重要ではないか。
実際に事故が収束しておらず、その影響についても時間がたたなければ正確なことは分からない。安全、安全と叫び続ければ安全になるのは妄想の中だけである。

漫画では、医師によって放射能と鼻血の因果関係は否定されている。因果関係はないと政府も学者は散々言ってきたではないか。しかし、因果関係とはあくまで統計の問題であって、無関係を意味するものではない。東電や行政には怒りの矛先が向かないように調整が図られている。食べて復興を応援するという考えもあるが、当然食べないという選択もある。しかし、公然と食べないと言えば批判をあびる。同調圧力の怖さである。皆何か思っていても黙ってて、知らないふりをするそれが日本社会における慣習に他ならない。


美味しんぼ:石原環境相、鼻血描写に不快感

福島・双葉町:「美味しんぼ」に抗議文

「雁屋哲の今日もまた」『反論は、最後の回まで,お待ち下さい』



この内容を書いていてリーガル・ハイの絹美村の件思い出した。
台詞は1:30から


肩をぶつける


私は時々扉に肩をぶつけてしまうことがある。例えば、扉が閉まりそうなときや少ししか開いていないときにぶつけてしまう。これは、自分が想像しているよりも実際の身体が大きいことに原因がある。
想像することと、現実に行動することとには大きな隔たりがある。しかしながら、試す価値はある。





















2014年5月8日木曜日

ピーナッツの旨味


ベトナムにはコムビンサンという皿飯屋がある。要は皿にご飯をよそって、その上に好きなおかずをのせるシステムというか料理というか、そういうものだ。
今日はおかず達と一緒に、炒めたピーナッツも並んでいた。これどうなんかなと思ったがこれものせてもらった。
いやー、これが御飯に合って旨いんだわ。ちょっと塩辛いんだけども。皆さんもお試しあれ。

2014年5月7日水曜日

授業


授業が3週間前から始まった。ことは
やはり発音が味噌だ。発音がわからない状態では当然単語の区別がつかない。
単語を覚えるにしても発音が分からなければ、má、mả、mã、mạ mà、maの区別もどこに記号が
ついているかの暗記になってしまう。難しいことは確かだが、少しずつ積み上げていくだけだ。
まともな教科書や環境もなかった中で、言語を学んだ先人には頭が下がるばかりだ。

2014年5月6日火曜日

戦争責任者の問題

また1つ資料が見つかったので、掲載しておきます。
戦争責任者の問題

伊丹万作 戦争責任者の問題より


(前略)
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

(中略)
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
(後略)

本当かな?


これって本当だろうか。彼ならさもありなんって感じだけどね。


安倍晋三首相の愛国心の過剰露出と、霞が関で話題なのが、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の記憶遺産への特攻隊資料の申請問題だ。首相から申請手続きに入るよう指示があったとされ、「集団的自衛権問題が佳境の折に雑音を増やすだけ」と自民党内からも懸念が上がっている。

「特攻」が世界記憶遺産に⁉安倍ご執心、担当は籾井令嬢

ランニング


アパートに住むようになってから、ほぼ毎日統一公園内の湖の周りを歩いている。
こっちきてよく運動するようになったわ。あと、鉄棒の平行棒みたいなものを使ってのトレーニングもしている、ベトナムの猛者たちに混ざって。
今日は、湖1周をランニングしてみた。しんどいわ。1周は約3kmらしい。

2014年5月4日日曜日

2014年5月3日土曜日

人間からショッカーへ



全くその通り。正義の人は悪を裁かずには居られない。もし居なければ、悪を仕立て上げ、そして裁き続ける。そうでなければ存在理由を失ってしまうからだ。争いをなくすためにに存在したはずが、その存在が争いを招き続けることとなる。


人間が手段化されていく有り様。



鈍感になっていく。生きているようで死んでいる。死んだように生きている。

そして、ショッカーとなった笑

どういう意味や

ハプロマートで発見。
食べ物にとって使用方法!
はて?


魚のブン


魚のブンを初めて食べた。
鶏肉や牛肉とは、全く異なる風味。
これは癖になりそう。


運動後の


ココナッツジュース。
ええわ、これ。すっきりしてる。


大学について考える資料


大学の役割を考えるの上で、示唆に富んだスピーチであったので紹介します。



東京造形大学2013年度入学式 諏訪学長による式辞

(前略)
そんなとき、私はふと大学に戻り、初めて自分の映画を作ってみました。自信はありました。同級生たちに比べ、私には多くの経験がありましたから。

  しかし、その経験に基づいて作られた私の作品は惨憺たる出来でした。大学の友人からもまったく評価されませんでした。一方で、同級生たちの作品は、経験も,技術もなく、破れ目のたくさんある映画でしたが、現場という現実の社会の常識にとらわれることのない、自由な発想に溢れていました。授業に出ると、現場では必要とはされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。驚きでした。大学では、私が現場では出会わなかった何かが蠢いていました。
 
  私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。
  「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。

  その探究が、一体何の役に立つのか分からなくても、大学においてはまだだれも知らない価値を探究する自由が与えられています。そのような飛躍は、経験では得られないのです。それは「知」インテリジェンスによって可能となることが、今は分かります。

(中略)

 私は、現場で働くことを止めて、大学に戻りました。
卒業後、私が最初に制作した劇場映画は決められた台本なしにすべて俳優の即興演技によって撮影しました。先輩の監督からは「二度とそんなことはするな」と言われました。何故してはいけないのでしょう? それは「普通はそんなことはしない」からです。当時の私があのまま大学に戻らずに、現場での経験によって生きていたなら、きっとこんな非常識な映画は作らなかったでしょう。しかし「普通はそんなことはしない」ことを疑うとき、私たちは「自由」への探究を始めるのです。それが大学の自由であり、大学においてこの自由が探究されていることによって、社会は大学を必要としているといえるのではないでしょうか。

抱き合わせ


ベトナムでも通販番組が放送されている。スーパーでもそうなんだが、Aを買ったらBがついて来ますって商法で、販売増加を狙っているわけだ。
関連する商品だったら分かるよ。食器に洗剤だとか。でも全く見当違いなものもあるわけ。
昨日通販番組では、コンパクトな掃除機が紹介されていた。4方向から吸い込めるようなことをいってたがそんなのいるか。今回、この掃除機を買った人には、ピーラーとフードプロセッサーがついてくるとのこと。売れ残りの抱き合わせちゃうんか。知らんけどな。

2014年5月1日木曜日

髪を切った


最近髪が伸びた気がして、早く切らねばと思いながらここ数日を過ごしていた。
ベトナムは、昨日から連休に入っており、私の気分も休みモードだ。
朝起きたら10時を過ぎていた。ま、別に用はないんだが。
14時ごろ無性に腹が減り、外へ。バイクが少ない!シャッターが閉まっている!これが祝日や。
ということで、Bún Chả を食す。腹も落ち着いたし、さて帰るか。否。
気になりだしたらずっと気にし続ける性分なので、髪を切りに。
ベトナムの床屋のオッサンは技術力あるな。なんやろなほんま。さっきまで寝てたというのに。

写真はありません。見せるほどのものでもありません。