2014年5月3日土曜日

大学について考える資料


大学の役割を考えるの上で、示唆に富んだスピーチであったので紹介します。



東京造形大学2013年度入学式 諏訪学長による式辞

(前略)
そんなとき、私はふと大学に戻り、初めて自分の映画を作ってみました。自信はありました。同級生たちに比べ、私には多くの経験がありましたから。

  しかし、その経験に基づいて作られた私の作品は惨憺たる出来でした。大学の友人からもまったく評価されませんでした。一方で、同級生たちの作品は、経験も,技術もなく、破れ目のたくさんある映画でしたが、現場という現実の社会の常識にとらわれることのない、自由な発想に溢れていました。授業に出ると、現場では必要とはされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。驚きでした。大学では、私が現場では出会わなかった何かが蠢いていました。
 
  私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。
  「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。

  その探究が、一体何の役に立つのか分からなくても、大学においてはまだだれも知らない価値を探究する自由が与えられています。そのような飛躍は、経験では得られないのです。それは「知」インテリジェンスによって可能となることが、今は分かります。

(中略)

 私は、現場で働くことを止めて、大学に戻りました。
卒業後、私が最初に制作した劇場映画は決められた台本なしにすべて俳優の即興演技によって撮影しました。先輩の監督からは「二度とそんなことはするな」と言われました。何故してはいけないのでしょう? それは「普通はそんなことはしない」からです。当時の私があのまま大学に戻らずに、現場での経験によって生きていたなら、きっとこんな非常識な映画は作らなかったでしょう。しかし「普通はそんなことはしない」ことを疑うとき、私たちは「自由」への探究を始めるのです。それが大学の自由であり、大学においてこの自由が探究されていることによって、社会は大学を必要としているといえるのではないでしょうか。

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